ご挨拶:院長の松本由紀子です
この度、神戸岡本にPlume Ladies Clinic(プリュームレディースクリニック)を開院させていただくこととなりました。
赤ちゃんが欲しい、将来のために自分の体について知りたいと思うすべての女性に適切な治療方針をご提案し、できる限り早くご妊娠、ご出産していただけるよう不妊治療・不育症治療・婦人科診療を行ってまいります。
私自身も、仕事をしながら不妊治療を行い出産をした経緯があり、患者の皆様が行う検査、治療についてはすべて経験しました。専門医でありながら結果が伴わないジレンマ、焦り、不安、努力しても叶わない悔しさなどを痛感し、不妊治療には、信頼して相談できる存在が必要と感じました。
ただ、治療期間を終えた今だからこそ思えることですが、不妊治療とは決して不安でネガティブなことばかりではなく、自分の理想とする未来についてじっくりと考えたり見つめ直すことのできる大切な準備期間だったと思えています。
クリニックにお越しいただけることにより、不安が少なくなり、将来について前向きに考えていただけることが我々の使命です。
女性が生涯にわたり輝き続けるためにサポートできる存在でありたい、たくさんの情報が氾濫している今こそ、その中から適切な情報をお届けすることができるのは我々しかできない、と思っています。
Plume(プリューム)は、フランス語で「羽」という意味です。お越しいただいた患者の皆様が明るい未来に羽ばたいていただけますように、との願いを込めてクリニック名にしました。
「来てよかった」と思っていただけるクリニックを目指してまいりたいと考えております。
どうぞよろしくお願いいたします。
Plume Ladies Clinic
院長 松本由紀子
日本産科婦人科学会認定 産婦人科専門医・日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医・日本生殖医学会認定 生殖医療専門医
History
プロローグ
Plume Ladies Clinic院長の松本由紀子です、私がどんな人間なのか皆さんに知っていただけるように、私自身の物語を書いてみたいと思います。
私の出身は岡山県岡山市です、兵庫県の隣の県ですが皆さんはどのような印象をお持ちでしょうか?
岡山は瀬戸内海の豊かな海の幸、桃やブドウなど果物を中心とした農産物にも恵まれた素敵な場所です。
私は父が勤務する岡山赤十字病院で3姉妹の次女として生まれ、幼少期は薬剤師の父、保育士の母、同居していた祖父母に囲まれて育ちました。
大学病院の勤務医をしている頃、夫と運命の出会いから結婚して神戸に来たのですが、おしゃれな街並み、淡路島や有馬温泉など観光地へのアクセスも抜群で大好きな街になりました。
特に開業地である岡本は、関西屈指の高級住宅街であり、大学生が多く暮らす学生街であり、美味しいケーキ屋さんやおしゃれな雑貨屋さんなどが沢山あって、開業を決めたとき場所をどこにするか考えると『絶対に岡本!』と即決しました。
そんな松本由紀子が神戸岡本で不妊治療クリニックを開業するまでの物語をつづっていきたいと思います。
幼少期~中学生
真っ黒に日焼けした子供時代
1975年(昭和50年)10月6日岡山県岡山市で生まれ、一つ年上の姉と六つ下の妹に挟まれ、三姉妹の次女として、たくましく育ちました。
4歳から姉と一緒に始めた水泳は中学生まで続けていましたので、昔の写真を見返すと、私と姉の二人は揃って真っ黒に日焼けしています。
水泳以外にも友達と近所のお寺で隠れんぼや鬼ごっこ、転んで膝にカサブタを作りながらもキャッキャと遊ぶわんぱく(おてんば?)な子供でしたね。
あ、シロツメクサで花輪は作っていました!
岡山市立宇野小学校では先に入部していた姉の影響もあり、吹奏楽を始めました。
姉のフルートを吹く姿に憧れていたものの、父に『姉妹で違う楽器を演奏している姿を見てみたい』と言われ…トランペットになりました♪
小学校の吹奏楽部にしてはとても活発でマーチングに力を入れていました。
水泳と炎天下の中でのマーチング、今考えると子供時代の写真が日に焼けた姿のものばかりなのは当然ですね。
中学校は岡山市立操山(みさおやま)中学校に進学し、中学二年生の時には吹奏楽部でパーカッションの担当になりました。
フルートに憧れて始めた吹奏楽でしたが、トランペットを吹いている横で木琴やシンバル、ティンパニなど色々な楽器を叩くパーカッションをカッコいい!と思っていたのでとても嬉しかったのを覚えています。
中学生になるとジーンズを気に入ってよく履いていました、実は岡山県は日本のジーンズ発祥の地なのです!
倉敷市の児島ジーンズストリートにはオリジナルジーンズメーカーが約40社もお店を構えており、全国のジーンズ好きが集まる観光地になっています。
岡山へお越しの際はぜひ足を延ばしてください。
高校進学について
自転車に乗って
高校は県立岡山一宮高校へ進学しました。
当時の岡山県では県立5校総合選抜制度といって、合格すると市内5つの県立学校のどこかに入学出来るのですが、どの高校に行くのかは合格発表前日までわからないのです‼
とはいえ、ほとんどの学生が自宅から近い高校に進学していたのであまり気にしていなかったら、結果は自宅から三番目に近い一宮高校へと進学する事になりました。
正直、学校がどこにあるのかも知らないくらいで、片道50分の自転車通学生活の始まりです。
【夫が転職により岡山への配属となった時、部屋を選ぶため不動産情報を見て驚いたのが駅徒歩の表示だったそうで、神戸なら駅徒歩5分以内なら駅近く、徒歩10分や15分なら閑静な住宅街と言った感じですよね。
岡山の不動産情報では、岡山駅から…
徒歩85分!!
電車が無いわけでは無くて、岡山は車文化のため最寄りの駅までローカル線に乗り換えて行くより、岡山駅まで車で迎えに行く方が効率的なので、『岡山駅基準』で距離感を測るだけなのです。
夫は岡山の事を『ちょうど良い田舎』と表現します、岡山は意外となんでも揃っているけど車がないと生活しづらいところがちょうど良い…らしいです】
という事で、高校生の通学にも電車は使わずどれだけ遠くても自転車で登校します。
途中で雨が降ったらどうするんだって?
選択肢は二つ、カッパを着て行くか…
本降りになる前に(カッパを着る時間も惜しんで)急いで行くか、簡単な二択です。
高校生活
高校生活の始まり
一宮高校の友人達とは今でも親交があり、このHPの写真も自撮りしたものを載せた時は皆がこぞって辛口コメントをLINEしてくれて、友達って素敵だなぁ…と(笑)。
入学当初は新しい環境に戸惑いましたが、新設校であったため校舎が新しく、制服も可愛くて高校に通った3年間は私にとって大変楽しい時間であり、授業中も、休憩時間も本当に毎日おなかが痛くなるほどたくさん笑い転げて過ごしていました。
運動部に入ろう!と思って部活は弓道部に。
テニスやバスケットのような花形スポーツでは練習についていけるか心配だったこと、袴姿に憧れたこと、そして最大の理由は一宮高校の弓道部は県大会を逃したことが無かった事です!
弓道部のある学校自体が珍しく県大会からスタート、履歴書に県大会出場って書けるじゃないですか♪
高校から自転車で1時間ほどのところに桃太郎の伝説で有名な吉備津神社があり、大会はそこで行われていました。
大会には当然ですが、袴をはいたまま自転車に乗って向かいます!
文系・理系、さてどうする??
高校2年生になると進路を決めなければなりません、まず文系理系どちらに進むか?
理系科目が得意な訳ではないが日本史がとても苦手→文系に進むと日本史…
消去法で理系となりました。
日本史必須から解放された私に次に迫る選択は社会と理科をどうするか…難題です。
まず社会、日本史と地理と世界史。
日本史は漢字が苦手、地理はよくわからないから難しそう、世界史は漢字でないし世界の歴史ってちょっとかっこ良いじゃない♪という前向きな判断で「世界史」です。
しかし同級生から決めた後で、日本だけよりも世界の方が広いのに余計大変じゃないの??ともっともな意見を言われました。
理科は物理が苦手だったから迷わず「生物」選択です。
男女がほぼ同数であった1年生から理系に進んだ2年生では女子はクラスで10名(1/4)ほどになりました。
気付いたら受験生
3年生夏、弓道が楽しくなってきた時期に同級生たちは部活を引退して受験勉強モードに入っており…
私はすっかり取り残された状態から、友人の真似をして受験勉強を始めてみました。
将来の夢などあまり考えたことがなく、現役時代は自分が将来何になりたいのかイメージが浮かばず、なんとなく国私立の理系大学をいくつか受けました。
が結果はすべて不合格。
入試シーズンを終え、浪人か…予備校へ通うのか…と思っていた3月末。
なんとなく新聞を見ていた父が、「〇〇大学合格者にお前の名前があるけど、受験したんだっけ?同姓同名っているんだなあ」と会話をしていたら、その翌日に補欠合格通知が届き、新聞の名前は私の事だったと判明しました。
※当時は新聞に大学合格者が毎日掲載されていたのです。
憧れの大学生活…
大学生になれるという事実が判明した瞬間、うれしくてたまらず『行く!!絶対!!将来のことは大学行ってから考える!!』と両親へ伝えました。
うれしい反面、『本当にどうするの?』『興味ある?』という自問もしていました。
入学金の振込締め切り日の朝、母から『入学金は今日振り込むが本当にいいの?全く努力していた気がしないけど。』と言われました。
悔しかったですが、まさにその通りでした…
少し考え、『入学金は支払わなくてよいです、浪人するからそれを予備校費用に充ててください、予備校へ行かせてください』と頼みました。
浪人させてくれた両親は本当に感謝しています、あの一言が無ければ今の私にはなっていませんでしたから。
浪人生活
のんびりしている暇はない?
浪人したからには『納得できる大学に行きたいな!』と初めて本気で受験について考えるようになりました。
4月に入り少しゆっくりしてから勉強を…と思っていたら、同じく浪人した友人から朝に電話がかかってきました。
『自習室が使えるらしいから今から行こう!!』と。
驚きました、『1年間勉強するのにもう??』『自習室で何を勉強するの??』と。
暇だったので、断る理由もなくなんとなく参考書をもって一緒に行きました。
そこからが浪人生活の始まりです、その友人と毎日授業と自習室をフルに使い、予備校の開いている時間はすべてそこで過ごしました。
高校1年生の内容から再度教えてもらえるため、なるほどそういうことだったわけね~と受験勉強でちんぷんかんぷんだったところを再度授業で習い、自習室で復習し、解けなかった問題が自分だけの力で解けるようになり、日々充実した毎日でした。
現役で志望校へ入学した仲間たちはこの勉強を部活もしながら、笑い転げながらもきちんとやっていたのかと改めて感じました。
医学部に入れる!?
浪人すると現役で合格した人たちが抜けるため、最初の模擬試験では偏差値がグーンと上がります。
4月から自習室に毎日通い最初の模試で好成績をとった私は、『この成績を1年間キープすれば医学部にいけちゃうわけ??』と単純に思いました。
浪人生活の中で国家資格である医歯薬学部に興味を持ち始めており、理系へ進んだこともやはり薬剤師の父の影響があったのかなと思い始めていました。
医学部にいけるかもしれないと思えた途端『すごくいきたい!』と思い、なりたい職業が明確に決まりました。
センター試験ではどんなコンディションになっても解けるようにイメトレもしていたのですがハプニング発生、英語の途中でトイレに行きたくなり『このまま解くか、トイレに行くか』迷います、色々な状況でテスト対策をしてきたつもりですが、途中トイレに行くという練習はしていません。
目の前のテストとおなかの調子を天秤にかけます…
結局、我慢して集中できないのはだめだと思い、手を挙げて『トイレです』と告げましたが、その後はロスした時間を取り戻すべくかなり集中できました。
センターの点数が確定した日。夜中に速報番組があり、どうやら医学部に行ける点数が出たかも、ということが分かったときに、寝ていた両親を起こして、「医学部に行きたい」と告げました。
実は両親にはそれまで全く成績の事も将来の希望も伝えていなかったので、かなり動揺していました。
2浪はさせられないため、後期試験では必ず行ける学部をという条件付きで医学部受験の許可をもらい、早速全国の医学部で私のセンター結果で合格判定が出る大学を探しました。
浜松医科大学に決めた!
センター試験の配分が高く、かつ社会の配分が低く、得意科目がないからできれば二次試験もいくつか教科がある大学…と選んでいくうちにたどり着いたのが、わが愛しの母校『浜松医科大学』だったのです。
早速、赤本を買って、小論文対策は通信制を申し込み…と二次試験対策を始めました。
滑り止めの私立大学はセンター試験入試結果のみで受験可能な薬学部を選び、医学部不合格の場合に行く大学を確保しました。
A判定が出れば必ず受かると思い込んでいた私は、大きなミスをしないことだけを考えており、センター試験終了後はかなりリラックスして過ごしていました。
合格発表は速達での郵送を選んでいました。発表当日には届くことはないだろうと思い、当日夕方に犬の散歩をしていたところ、母が慌てて封筒をもってきました。
『合格通知って見に行かなくても同時刻に届くんだ~』と思い、軽い気持ちで封を開けました。
たくさんの番号の中に私の番号が載っていた時には、やれることはやったとはいえ本当にいけるの??と信じられない気持ちになりました。
母は隣で泣いていました。
合格を知った瞬間は、犬の散歩中でした。
浜松医科大学での生活
うなぎパイ最高!
浜松医科大学は関東圏、愛知県などから進学する学生が多い大学で、単科大学のためサークルもあまり多くなく、高校よりもはるかにコンパクトです。
部活は剣道部へ、理由は入学式で親しくなった友人が剣道部に入るといったから私も一緒にという単純なものでした。
『弓道に剣道とどうして武道ばかりなの?』と友人に聞かれたのですが、たまたまで特に意識した訳ではありません。
女子は4名が入部しましたが、全員未経験者だったので一緒に習っていく感じがとても楽しかったです。
医学部生といえば家庭教師が定番ですが、私はいわゆるバイトというものを経験しておきたいと思って、チェーン展開レストラン(サンマルクベーカリーレストラン)で数年間アルバイトをしていました。
高校生など多くのバイト仲間は進学や就職で辞めていく中、数年間に渡り楽しいので一日中でも働いていた私は、バイトの中ではかなりのベテランになりました。
世間知らずで過ごしていたことを思い知らされつつも、医師としての職業しか知らない今となっては多くのことを経験させていただけたこのアルバイトは私の財産になりました。
産婦人科医を選んだ理由
医学部5年生になりポリクリという臨床での研修が始まりました。
4~5名のグループに分かれ、1年かけて大学の附属病院や関連施設ですべての診療科を研修します、当時の私は特に進みたい診療科も決まっておらず、実際に自分が選んだ場合のイメージをしながら研修を受けていました。
産婦人科では、若い方からご高齢の方まで、全ての女性とかかわるというのが第一印象です。
そしてそれ以外にも他の科と違う点がいくつかありました。
・内科の病気から手術まで同じ医者が対応できる事
・産婦人科の患者は女性しかいないので、同じ女性だからこそ分かる事がある
・産婦人科に進んだのちにも、不妊のこと、お産の立ち合い、子宮などの手術…と自分の適性によってやりたい事を決められる
やはり産婦人科医になりたい!と決め手になったのは、女性医師として患者の皆さんと寄り添う事できるのではないかという点でした。
大学6年生の秋からは一気に卒業試験、国家試験合格に向けての受験勉強が始まります。
同級生で勉強会をし、みんなで合格しようねと励ましあいながら日々過ごしていました。
1~2月に卒業試験を行い、無事に3月の卒業式を迎えました。
6年間の学生生活の終わりには岡山から母親もかけつけてくれて、この日は心から晴れやかな気持ちで同級生たちと喜びました。
しかし、うかうかとはしていられません。
卒業式の数日後に国家試験というスケジュール、国家試験は静岡から同級生たちとバスに乗って愛知県で受験しました。
岡山大学に入局
医師としてスタート
勤務先も悩みましたが、生まれ育った岡山にて医師として勤務をしたいという思いが強くあり、岡山大学の医学部産科婦人科学教室へ入れていただくことになりました。
国家試験を終えると、4月からの入職に向けすぐに岡山へ転居の準備です。
4月1日、産科婦人科学教室の会議室に同期となる面々が初めて集合です、男性3名と女性4名の全員で7名です。
この日から入職ですが、国家試験の合格発表はまだ出ておらず、4月の1か月間は研修のみとなります。
4月末、合格通知が届き無事に7名全員が合格しており、晴れて医師になれました!
先輩医師の指導を受けながら、医師としての生活が始まりました。
医師2年目で神戸へ
医師になると1年目は大学病院で指導医師のもとで研修を行い、2年目は大学病院以外の関連病院へ異動します。
私が異動の辞令を受けたのは、神戸市垂水区の神戸掖済会病院でした。
この病院で私の運命を決める方々と出会うことになります。
当時の神戸掖済会病院産婦人科は、苔口昭次先生(英ウィメンズクリニック現院長)が一人で産婦人科の診療を行われておられました。
私が入職した初日から大変忙しく、右も左もわからない私に対し苔口先生はあらゆることを教えてくださいました。
掖済会病院では昼夜を問わず、かなりの時間を病院内で過ごしていたため、助産師さん、看護師さん、他の診療科の先生方などにも『いつもいるね』と言われ、診療科や職種の壁を越えて多くのスタッフの方に支えていただきました。
苔口先生はとても忙しいのに常に穏やかで患者さんからの信頼も大変厚く、患者さんの前に着ぐるみを着て行くなど色々なアイデアを企画するので、私も一生懸命ついていきました。
当時、垂水区に英ウィメンズクリニックができてまだ数年の頃で、垂水クリニックの治療で妊娠された方の妊婦健診やご出産の立ち会いを掖済会病院で行っていました。
また診療の空いた時間帯に英ウィメンズクリニックで不妊治療の勉強をさせていただいたりと、病院勤務の経験しかない、不妊治療を経験した事がない私にとって非常に新鮮で勉強になりました。
再び兵庫県へ
神戸掖済会病院の後1年間は岡山にもどり、その後再び兵庫県の病院への異動辞令が出ました。
姫路赤十字病院で産婦人科部長をされていたのが赤松信雄先生です。
赤松先生からは診療の技術などはもちろん、決められた時間で仕事を行うことの大切さや他職種の方々との連携の大切さなど、社会人として組織であるべき姿をご指導いただきました。
医師としてのキャリア
5年目になるとその後の進路について決める時期になります。
大学院で研究を行うか、産婦人科医としてキャリアを積むかを選択でき、6年目で専門医を取った後、それぞれの道へ進んでいきます。
私は、研究よりも産婦人科医としての現場のキャリアを積みたいと考えていました。
岡山大学産婦人科は当時から、産科・婦人科診療はもちろん、不妊や不育症治療、LGBTQについても積極的に取り組んでおり、私が不妊治療の専門医へと進むことになったのも、その時の経験があるからだと感じます。
英ウィメンズクリニックに入職
運命の出会い
岡山大学で勤務中、転職により岡山で働いていた主人と出会いました。
横浜で学会の最中だったのですが、たまたま入院患者さんの様子を見るために1日だけ岡山に帰っていた時に知り合いました。
その後長女を妊娠して育児休暇を取りながら将来の働き方を考えていましたが、娘が生後4か月になった頃に主人の転勤が決まり、またまた神戸にやって来ました。
英ウィメンズクリニックに入職
神戸に来たことを掖済会病院での上司だった苔口先生に報告したところ、『英ウィメンズクリニックで一緒に働いてみませんか?』と言われました。
数日後、数年ぶりに塩谷雅英先生、苔口先生にお会いし、英ウィメンズクリニックでの勤務が始まりました。
不妊治療は女性の本能である子供が欲しいという思いに懸命に向き合います。
最新の技術を取り入れ、医師だけでなく胚培養士とともに治療方針を立てるという事が興味深かったです。
塩谷先生は、とにかく患者さんのためになることは時間も労力も惜しまず毎日休みなく懸命に向き合っておられ、エネルギーに満ち溢れた方です。
英ウィメンズクリニックには、現後藤レディースクリニックの後藤栄先生が勤務されており、国内外で数々の業績を残しておられました。
女医としてのキャリア
後藤先生に出会い、女医で子育てをしながらも何も犠牲にすることなくキャリアを積むことができる働き方があるのだと知りました。
不妊治療に専念して働きたいと思うようになり、岡山大学の平松教授へその思いを伝えると『決めたのであればとにかく頑張りなさい。でも、困ったらいつでも相談に来なさい。岡大で研修したのだから。』と言って送り出してくださいました。
英ウィメンズクリニックでは、診療のかたわら、学会発表、論文発表の機会も多くいただきました。
常に最新の情報を取り入れ、患者さんへお届けすることがいかに大切であるかを考えさせられます。
海外学会(ESHRE)で初の発表を経験し、とても充実した仕事をさせていただきながら、二人目が欲しいと思うようになりました。
私も不妊でした
二人目不妊
一人目が自然妊娠できたように、二人目もできると思っていましたが、叶いませんでした。
子宮鏡検査、子宮卵管造影検査、精液検査などを終え、特に夫婦ともに異常が見当たらず、それでも妊娠できず、徐々に焦りが出始めました。
最初に検査してから1年後。人工授精などもしながら仕事をしていました。
2010年ストックホルムでのOrigio Sales and Marketing Meetingを終えたら体外受精治療へ進みたい、と主人に相談しました。
二人目を希望した当初、自分が体外受精治療を経験することになるとは、全く思っていませんでした。
妊娠したいと思い、その思いがこんなに叶わないなんて…
そしてステップアップの方法があると知りつつ、それが必要なのだと自分に言い聞かせ実際進むには実はとても勇気が必要でした。
二人目が欲しいと望んで治療しながら海外出張の準備をし、何とか終わらせたときに「もう仕事が忙しいと言い訳できない。諦めるか進むかしかない」と思いました。
そのときにとても迷って選んだのは、体外受精治療へ進むことでした。
松本が体外受精治療します
診察予約を取り、エコー検査をしてもらいました。
塩谷先生に相談し、勤務先での体外受精治療が始まりました。
「松本が体外受精治療します。よろしくお願いします」とミーティングで伝えました。
勤務先で治療する以上隠せません。
すべてを曝け出し、励ましてくれるスタッフの皆さんの期待に応えられなかったらどうしよう、という不安がありましたが、公にしたことで正直ホッとして開き直ることができ、ラクにもなりました。
毎日注射を打ちますが、そのスケジュールや投与方法は自分で考えたり、他の先生へ相談しました。
採卵前の腹部膨満感、静脈麻酔での採卵、忘れずに行わなければならない注射や薬の投与は本当に大変でした。
頑張っている患者さんの姿にどれだけ励まされたかわかりません。
忘れないようにスマートフォンでアラームをセット。
おなかに貼るシールがお風呂でもはがれないように防水テープ。
おなかへのシールは跡が残って痒いけど治る、などのご意見は「わかる、私も」「なるほどそのアイデアいいですね!!」と思いながらも、目の前の患者さんには言えずにいました。
結局採卵2回、凍結胚移植は6回おこないました。途中2回の流産も経験しました。
その間、塩谷先生はじめスタッフの皆さんにはとても気遣っていただきました。
不妊治療の専門医として働いていながら、自分の身体のことは全く分からない。
なかなか結果が伴わないことに、焦りや不安を感じていました。
「患者さんに頑張れと励ましながら、自分が妊娠できていない、こんな私をだれが信用してくれるのだろうか」と自問する日々…
それでも仕事を続けられたのは、「頑張っている患者さんには目標を叶えてもらいたい」と切に思えたからです。
治療 vs 仕事じゃない
自分の結果が出なくても、患者さんの結果には心から喜ぶことができ、治療 vs 仕事でもないのだなと感じていました。
何度目かの移植の後に「2段階胚移植をしたい。それでも無理なら区切りを考えよう!不妊治療も仕事も…」そう思って臨んだ2段階胚移植でようやく妊娠ができました。
やることはやったという気持ちがあり、どのような結果でも受け入れる覚悟をしていたので妊娠が分かった瞬間は意外と冷静でした。
スタッフの方が泣いて喜んでくれました。
副院長として
育児と仕事のバランスについて日進月歩の生殖医療ではとにかく情報の更新がとても重要です。
つわりもあまりなく、産休ぎりぎりまで勤務することができ、出産は上田病院へお願いしました。
次女を出産後5か月で復職できたのは、家族や保育園の先生方、クリニックの方々の多大なサポートを受けたおかげです。
副院長であるにもかかわらず育休で不在でしたので、復帰後すぐに診療に慣れることと学会発表の準備を始めました。
2014年ハワイで開催されたアメリカ生殖医学会(ASRM)にて、海外の学会では初めて口演発表に選ばれました。
選ばれたのは嬉しかったですが、すぐに英会話スクールに申し込み、発表内容を猛特訓の日々でした。
自身の発表のために一緒に同行していた『現オガタファミリークリニック』の緒方誠司院長、緒方洋美副院長は、私よりも緊張していました(笑)
翌年、ボルチモアでASRM-2015が開催され、応募演題がポスターにて採択されました。
長女と2歳になったばかりの次女を家族に預けて1週間以上も家を留守にするのはどうかと思いましたが、たまたまこの年に採用されたのが私の演題だけだったこともあり、悩んだ結果『家族で行こうか♪』となりました。
せっかく家族で行くのだからと、ワシントンD.C.に直行便で到着しホワイトハウスやスミソニアン博物館を観て回り、電車でボルチモアへ移動。
学会に参加後は休暇をいただき、ニューヨークへ移動して、自由の女神やセントラルパークを観光してから帰国しました。
仕事に家族が同行したことは初めてです。緊張感と安心感が入り混じっていました。
その後は、塩谷理事長、苔口院長、英ウィメンズクリニック全スタッフで日本でどこにも負けない治療技術を提供できる施設であり続けられるために日々全身全霊尽くして診療や研究に従事してきました。
不妊治療については英ウィメンズクリニックでしか勤務経験がありませんが、その間には他施設の先生方の講演や発表を聞かせていただけたことがきっかけで多くの先生方との出会いがあり、本当にたくさんのことを教えていただきました。
そのすべてが私の現在に繋がっています。
開業へ
医師という職業は、資格を得るまでに研修をさせていただく患者さんに出会い、多くの方の支えがあって初めて得ることのできるものです。
研修が必須である以上、自分一人の努力では医師にはなれません。
医師として自分らしく患者さんに寄り添えているか、ということは毎日考えています。
13年間不妊治療に携わり、途中で自分も経験し、45歳となり治療をしている方々が私よりも若い年齢が増えたこともあり、不妊治療について色々思うことも変わっていきました。
不妊治療は、「妊活」とも呼ばれるようになりつつも、やはり根底にネガティブなイメージがあります。
治療している自分も、できないと責める自分も全然ダメではないし、胸を張って上を向いて、前を向いて欲しいと患者さんには思っています。
気軽に訪れて相談できる不妊治療クリニックを自分らしく作りたいと、塩谷理事長に伝えたところ、応援するから頑張ってと背中を押してくださいました。
不妊治療のすべてを教えていただき、勉強する機会を与えてくださり、自分が不妊治療をしていた際も妊娠できるはずだからとあらゆる治療方針をご提案してくださった恩師です。
開業に向けて、ご助言をいただきながら準備が始まりました。
最後に…私のヒストリーにお付き合いくださり、ありがとうございました。私という人物像が少しでもお越しいただく患者さんへ届けばうれしいです。
略歴
1975年 | 岡山市生まれ |
---|---|
2001年 | 浜松医科大学医学部卒業 岡山大学医学部産科婦人科学教室入局 |
2007年 | 英ウィメンズクリニック 入職 |
2010年 | 英ウィメンズクリニック 医長 |
2012年 | 英ウィメンズクリニック 不育症センター長、統合医療部門部長、臨床遺伝専門部長 |
2013年 | 英ウィメンズクリニック 副院長 |
2021年 | プリュームレディースクリニック開業 |
主な学会発表
2009年 | ヨーロッパ不妊学会(ESHRE)ポスター発表 |
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2010年 | Fertility and Sterility 論文採択 |
2014年 | アメリカ生殖医学会(ASRM) 口演発表 |
2015年 | アメリカ生殖医学会(ASRM) ポスター発表 |
共著書
エキスパートによる生殖領域の外科的手法 生殖内視鏡と不妊治療のコツ
柴原浩章 編著、中外医学社
院長 松本由紀子が『子宮卵管造影検査』について分担執筆しています。
資格
- 日本産科婦人科学会認定 産婦人科専門医
- 日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医
- 日本生殖医学会認定 生殖医療専門医
所属学会
- 日本産科婦人科学会
- 日本生殖医学会
- 日本受精着床学会
- 日本IVF学会
- 日本人類遺伝学会
- 米国不妊学会
学会・講演会発表、論文発表(主著のみ、共著は除く)
2019年
- ARTにおける胚移植後妊娠判定日の血中hCG値は妊娠後転帰をどの程度予測できるか
松本由紀子、江夏徳寿、田中雄介、山田弘次、林奈央、江夏宜シェン、十倉陽子、水澤友利、岡本恵理、山田聡、片山和明、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
兵庫県産科婦人科学会学術集会 2019年6月30日 神戸市医師会館 - 不妊治療施設における遺伝カウンセリング外来の現状
松本由紀子、岡本恵理、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第64回日本生殖医学会学術講演会 2019年11月7-8日 神戸国際会議場
2018年
- 判定日の血中hCG値は妊娠後転帰をどの程度予測できるか
松本由紀子、江夏徳寿、林奈央、江夏宜シェン、十倉陽子、水澤友利、岡本恵理、山田聡、片山和明、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第36回日本受精着床学会学術講演会 2018年7月26-27日 幕張メッセ国際会議場
2017年
- Reproductive Medicine and Biology Apr,16(2):196-199 2017
Effects of endometrial injury on frozen–thawed blastocyst transfer in hormone replacement cycles
Yukiko Matsumoto, Shoji Kokeguchi, Masahide Shiotani
Hanabusa Women’s Clinic, Kobe, Japan
2016年
- 高齢不妊患者の現状と当院での取り組み
松本由紀子 苔口昭次 塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第1回生殖・周産期医療交流シンポジウム 2016年2月14日 神戸市医師会館 - 胚移植前の子宮内膜刺激は着床に有効か?
松本由紀子、矢田桃子、岡本恵理、山田聡、水澤友利、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第31回日本生殖免疫学会学術集会 2016年12月2-3日 神戸国際会議場 - アンタゴニスト法での調節過排卵刺激中の血中FSH値は最適ゴナドトロピン製剤投与量を決める指標となりうるか?
松本由紀子、矢田桃子、古橋孝祐、水澤友利、岡本恵理、緒方誠司、山田聡、伊藤宏一、片山和明、伊原由幸、山本輝、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第61回日本生殖医学会学術講演会 2016年11月3-4日 パシフィコ横浜
2015年
- 子宮内膜刺激により着床環境を整える-子宮内膜細胞診キットを使用した検討を中心に-
松本由紀子 英ウィメンズクリニック
兵庫県温知会臨床懇話会講演 2015年1月24日 神戸市立医療センター中央市民病院 - Systemic or Local Human Chorionic Gonadotropin Administration is not Beneficial for Frozen-thawed Embryo Transfer in Hormone Replacement Cycles
Yukiko Matsumoto, Shoji Kokeguchi, Masahide Shiotani
Hanabusa Women’s Clinic, Kobe, Japan
American Society for Reproductive Medicine 71th Annual Meeting October 17-19,2015 ボルチモア(アメリカ) - ホルモン補充周期での凍結融解胚移植におけるhCG子宮内投与の有効性についての検討
松本由紀子、中原恵理、江夏宜シェン、片山和明、岡本恵理、緒方誠司、山田聡、水澤友利、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第33回日本受精着床学会学術講演会 2015年11月26-27日 東京ビッグサイト
2014年
- The Effects of Endometrial Injury on Frozen-thawed Blastocyst Transfer in Hormone Replacement Cycles
Yukiko Matsumoto, Momoko Yata, Hiromi Ogata, Seiji Ogata, Shoji Kokeguchi, Masahide Shiotani
American Society for Reproductive Medicine 70th Annual Meeting
October 18-22,2014ホノルル(アメリカ) - 3回以上の反復生化学的流産症例の予後についての臨床的検討
松本由紀子、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第131回近畿産科婦人科学会学術集会 2014年10月26日 大阪国際交流センター - 3回以上の生化学的流産の予後についての臨床的検討
松本由紀子、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第59回日本生殖医学会総会・学術講演会 2014年12月4-5日 京王プラザホテル
2012年
- 3回以上の反復生化学的流産症例の予後についての臨床的検討不育症の抗凝固療法におけるヘパリン投与開始時期の違いによる妊娠後転帰の検討
松本由紀子、十倉陽子、緒方誠司、山田聡、水澤友利、岡本恵理、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第57回日本生殖医学会学術講演会 2012年11月8-9日 長崎ブリックホール
2011年
- Comparison of two commercially available media for the culture of human embryos: a prospective, randomized, comparative study
Yukiko Matsumoto
Hanabusa Women’s Clinic
Origio Sales and Marketing Meeting 講演 June 30 2011ストックホルム(スウェーデン) - 抗フォスファチジルエタノールアミン抗体陽性不育症患者の抗凝固療法におけるヘパリン投与期間についての臨床的検討
松本由紀子、片岡信彦、水澤友利、緒方誠司、岡本恵理、山田聡、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第29回日本受精着床学会学術講演会 2011年9月9-10日 京王プラザホテル - 日本受精着床学会雑誌28(2)2011
抗リン脂質抗体陽性反復流産患者に対する抗凝固療法の治療成績の検討
松本由紀子1、片岡信彦1、西野仁美1、緒方誠司1、水澤友利1、山田聡1、苔口昭次1、野田洋一2、塩谷雅英1
1英ウィメンズクリニック 2第一東和会病院 女性骨盤外科
2010年
- A healthy birth after intracytoplasmic sperm injection using ejaculated spermatozoa from a patient with Kartagener’s syndrome
Yukiko Matsumotoa, Sakae Gotoa, Hiromi Hashimotoa, Shoji Kokeguchia, Masahide Shiotania, Hiroshi Okadab
a Hanabusa Women’s Clinic, Kobe, Japan bDokkyo Medical University Koshigaya Hospital, Koshigaya, Japan
26th Annual Meeting European Society of Human Reproduction and Embryology
June 27-30,2010 ローマ(イタリア) - 抗リン脂質抗体陽性の反復流産患者に対する抗凝固療法の治療成績の検討
松本由紀子1、後藤栄1、松永雅美2、西野仁美1、緒方誠司1、水澤友利1、宮本博之1、山田聡1、苔口昭次1、塩谷雅英1
1英ウィメンズクリニック 2雅レディースクリニック
第28回 日本受精着床学会学術講演会 2010年7月28-29日 パシフィコ横浜 - 妊娠初期におけるヘパリン投与の流産率に及ぼす影響
松本由紀子、後藤栄、緒方誠司、水澤友利、宮本博之、山田聡、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第55回日本生殖医学会学術講演会 2010年11月11-12日 ホテルクレメント徳島 - Fertility and Sterility Vol93, No6, Apr 2010
A healthy birth after intracytoplasmic sperm injection using ejaculated spermatozoa from a patient with Kartagener’s syndrome
Yukiko Matsumotoa, Sakae Gotoa, Hiromi Hashimotoa, Shoji Kokeguchia, Masahide Shiotania, Hiroshi Okadab
aHanabusa Women’s Clinic, Kobe, Japan bDokkyo Medical University Koshigaya Hospital, Koshigaya, Japan
2009年
- Kartagener 症候群患者の射出精子使用によるICSIにより生児を得た1例
松本由紀子1、後藤栄1、橋本洋美1、松永雅美1、梅影秀史1、苔口昭次1、岡田弘2
1英ウィメンズクリニック 2獨協医科大学越谷病院泌尿器科
第27回日本受精着床学会学術講演会 2009年8月6-7日 国立京都国際会館 - ホルモン補充周期における単一凍結融解胚移植後の妊娠判定日血中βhCG値と妊娠予後の検討
松本由紀子、後藤栄、橋本洋美、松永雅美、苔口昭次、塩谷雅英
英ウィメンズクリニック
第54回日本生殖医学会学術集会 2009年11月22-23日 ANAクラウンプラザホテル金沢